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更新日:2021年2月24日
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神通川河口は、現在の位置よりも西側(今の富山市四方西岩瀬付近)にありましたが、江戸時代の万治元年(1658)の洪水によって、流れが東側の東岩瀬に移りました。これにより、東岩瀬に港の機能が与えられました。
東岩瀬に加賀藩のお蔵が置かれ新川郡一帯の米が集まり、東岩瀬港は大阪への積み出し港として栄えました。さらに江戸時代後期には北海道交易を中心に廻船問屋(北前船主)が成長し、活況を呈するようになりました。
しかし、北前船のにぎわいは明治中期までで、汽船の進出や鉄道の開通により、北前船は衰退していったのでした。
帆船から汽船へ、船の大型化の時代でしたが、東岩瀬港は大型船に対応した港の整備に立ち遅れました。
さらに、明治34年(1901)~36年(1903)に行われた神通川の馳越線工事により流される土砂が河口の東岩瀬港にたまり、それまでは積み荷のまま港に入れた船が沖合に停泊し、艀で荷物を運ばなければならなくなりました。
川の上流から土砂で港が浅くなるのは河口港の宿命でした。
この宿命から逃れるためには、港を川から分離するしかありません。
大正14年(1925)、地元の実業家らのねばり強い要望運動により、元の神通川の左岸の堤防に新しい右岸の堤防を築き、神通川の流れを西側へ振りかえる計画が国に認められました。そして翌15年7月に神通川を締め切って、川と港の分離工事が完成し、元の神通川の河口がそっくり港となり、東岩瀬港は、ほぼ現在の富山港の姿になったのです。
ここに東岩瀬港は、馳越線工事による負の遺産を克服し、1千トン級の船が着ける近代港湾として出発しました。
その後、東岩瀬港は3千トン級の船が着けるように改修され、昭和9年(1934)の富岩運河の完成にともなう北部地域の工業化によって、急速に発展していきました。
また、東岩瀬町などの富山市との合併にともない、昭和18年4月、東岩瀬港は「富山港」となり、その後も、経済の急速な発展と原料や燃料の大量搬入の必要から海上輸送が盛んになり、取り扱い貨物量は年々増加していきました。
昭和61年6月、富山港は隣接する富山新港、伏木港とともに、伏木富山港として特定重要港湾に指定されました。
平成23年4月には、港湾法改正により国際拠点港湾となっています。
現在、富山港は、1万5千トン級船舶4隻、1万トン級船舶1隻が係留できる岸壁のほか、上屋、荷役機械なども整備され、外貨貿易を中心に取り扱っています。
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