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更新日:2025年2月19日
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江戸時代の終わり、安政5年(1858)、跡津川断層を震源とする推定マグニチュード7.3~7.6の飛越地震が発生しました。この大地震で立山カルデラ内の大鳶山、小鳶山が崩壊し、カルデラ内に崩れ落ちた厖大な量の土砂(4億㎥)が常願寺川支川の真川、湯川をせきとめ、幾つもの天然ダムを形成しました。
その後、再び起こった地震や、大量の雪解け水によって水嵩を増した天然ダムが決壊し、2度にわたって大土石流が下流の富山平野を襲いました。推定約2億㎥の土砂が富山平野の広い範囲を埋め、死者140名、負傷者8,945名という記録が残っています。
明治時代以降、常願寺川は毎年のように氾濫を繰り返す暴れ川となりました。明治年間だけでも計41回もの洪水が確認されています。頻発する水害対策に注力するため明治16年(1883)、石川県から分県して富山県が誕生しました。
明治17年(1884)から富山県による治水工事が開始され、以後、県予算の約80%を占める河川砂防費を費やして対策工事が進められましたが、その後も災害は繰り返され、とりわけ明治24年(1891)の氾濫は最も大きな被害をもたらしました。
そこで、明治24年(1891)、県は、オランダ人技師ヨハネス・デ・レイケを招聘し、常願寺川対策の指導を求めました。デ・レイケは、農業用水の合口化、河道の改修などの常願寺川下流の河川改修計画を立案し、工事に着手しました。河川改修工事は明治26年(1893)に完成をみましたが、上流崩壊部の対策が行われていないことから、その後も水害は治まりませんでした。
明治39年(1906)、富山県による立山カルデラ荒廃地での砂防事業が開始されました。工事の進捗とともに徐々に効果を見せはじめていましたが、大正8年(1919)、11年(1922)の土石流で壊滅的な被害を受け、砂防工事は中止を余儀なくされました。
当時の砂防法では、国直轄の工事は利害が2府県以上に及ぶ場合に限られていましたが、県は常願寺川の砂防事業が技術的にも財政的にも困難なことから、官民一体となって国に働きかけ、大正13年(1924)に砂防法が改正され、砂防工事の国営化への道が開かれました。
大正15年(1926)、オーストリアで近代砂防技術を学び、後に「近代砂防の父」と評される赤木正雄が立山砂防事務所の初代所長となり、国営砂防工事が開始されました。
赤木の計画は、巨大な砂防堰堤の建造を中心に、植林などの日本古来の治山技術を組み合わせた大規模で、独創的かつ総合的な砂防計画でした。
この計画にもとづいて、まず、大量の資材を輸送する「立山砂防工事専用軌道」を建設し(大正15年~昭和6年)、カルデラからの土砂流出を抑える「白岩堰堤」(昭和4~14年)と土砂の発生を防ぐ「泥谷堰堤」(昭和5~13年)が建造されました。
一方、上流域での工事と併行して、内務省技師・蒲孚の理論をもとに、中流で貯砂と土砂の調整を行う「本宮堰堤」が、富山県から国への委託事業として建造されました(昭和10~11年)。
令和8年(2026)に直轄砂防事業100年、県営砂防事業は120年を迎えますが、砂防工事は今もなお続いています。
今では、この砂防事業による侵食や洪水の制御によって河川が安定し、かつての洪水氾濫地域だった富山平野には豊かな農地や住宅地などの市街地が広がっています。
立山砂防の歴史は、厳しい自然環境に向き合い、活かしながら、土砂災害を克服し、経済的にも社会的にも豊かな“ふるさと富山”を築いてきた歴史でもあります。
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