とやま水マップ[神通川流域圏の水文化の概要]
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神通川流域圏の水文化の概要
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神通の舟橋と常夜灯|神通川の馳越(はせこし)工事|牛ヶ首用水|大久保用水|舟倉野用水|富岩運河、中島閘門、牛島閘門|大久保発電所|平地の低落差発電所群|河川敷の空港|ます寿し|神通川の伝統漁法|八尾和紙|棚田(八尾町三乗(みのり))|舟運|松川遊覧船|富山市科学文化センター|日本海学推進機構|(財)富山・水・文化の財団|名水|富山市街地の用水|いたち川のドンドコ|エンナカ(八尾町、火防・流雪用水路)|路面流水方式による消雪|かっぱの恩返し|牛ヶ首神社|いたち川地蔵尊祭り|売比河鵜飼祭(めひかわうかいまつり)|婦中曲水の宴|水琴窟(すいきんくつ)|大伴家持の歌|水にちなんだ地名
- 舟橋の歴史は、江戸時代1596年(慶長元年)前田利家が造らせたのが始まりといわれる。当時、川に浮かべた52艘の舟を太綱でつなぎ、その上に木の板を3枚ずつ並べて人を通らせた。その後、七軒町のあたりにかけかえられ、太綱は鉄の鎖2本になり、舟も64艘になりったが、橋から落ちる人もたえず、板は5枚に、さらに7枚にと増やされた。神通川の舟橋は、やがて越中の名所として浮世絵でも全国に紹介されるようになった。
- 橋のたもとには茶店ができ、名産のますずしの店も並ぶようになった。1799年(寛政11年)には舟橋の両岸に常夜灯が造られ、川を渡る人々を見守るようになった。この常夜灯は、現在も昔橋が架かっていた近くに(富山市丸の内1丁目)残っている。
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- 明治34年から36年にかけて県営で行われた神通川の河川改修工事で、富山市街地で大きく曲流していた流れをほぼ直線にショートカットして市街地を洪水被害から守ろうとしたもの。現在の、松川、いたち川の流路が旧神通川の曲流の名残である。
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- 牛ヶ首用水は、水不足に悩んでいた呉羽山丘陵北側に広がる平野の農民達の願いを加賀藩が聞き入れて用水開削にかかる費用を全面的に負担して着工した用水である。1624年(寛永元年)から9年の歳月をかけて完成し、2万5千石あまりの水田を潤した。今でも、富山市、婦中町、新湊市、小杉町、下村に至る約4,220haもの水田を潤している。
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- 大久保用水は、現在、神通第三ダム右岸から水を取入れ、途中で1ヵ所の発電所を通り、約438haの水田を潤しています。この用水も難工事のすえ、1818年(文政元年)に完成したもので、この水は富山で最も古い大久保発電所にも利用されています。
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- 江戸時代の後期、1810年代(文化年間)に開削された用水。神通川の支川の長棟川から崖伝いに今の大沢野町船峅地区の台地に引かれた用水路で、これにより水不足で開田できなかった高台に一気に水田が開かれた。
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- 富岩運河は、富山港とJR富山駅北間の約5.1kmを結ぶ運河で、昭和9年に県の都市計画事業の一環として完成した。完成後、運河の周辺には多数の工場が立地したほか木材業の発展につながるなど富山市の産業振興に重要な役割を果たしてきた。
- 近年は、とやま都市MIRAI計画やポートルネッサンス21計画に基づいて周辺の環境整備が進展し、遊歩道やベンチ、オブジェなどが設けられ人々の散策コースとして親しまれている。
- 平成10年(H10年5月1日)には、運河の途中にある中島閘門が昭和初期の土木建造物として全国で初めて国の重要文化財に指定された。中島閘門は、約2.5mの水位差を2枚の扉で調節する方式で当時としては最先端の土木技術が利用されている。また、牛島閘門は平成14年(H14年6月25日)に国の登録有形文化財に登録された。
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- 富山県の水力発電の歴史は、1899年(明治32年)に大沢野塩の大久保発電所から始まった。全国でみても3番目という早さである。大久保用水の分流が崖を落ちる落差を利用して造られた富山県最初の発電所である。当時は、出力150kwで送電を始めたが、現在では出力400kwで建設以来100年以上経った今でも現役の発電所として発電し続けている。
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- 富山県特有の用水利用の発電所。現在、牛ヶ首用水に成子発電所、成子第二発電所等5ヵ所の発電所がある。
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- 河川敷を利用した全国唯一の空港。1963年(昭和38年)に開設されたときは滑走路延長1200m、幅30mという小さな空港であったが、現在では、滑走路延長2000mで韓国、ロシア、中国への国際便も運航し富山の空の玄関となっている。
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- 江戸時代、富山藩士の吉村新八が考案したと伝えられ、将軍吉宗にも献上され、それ以来富山の名産になった。原料のマスは、今はほとんどが北海道の海で捕れたものである。
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- 神通川の伝統漁法として「流し網漁」がある。全国的にも珍しい漁法で江戸時代に始まったといわれている。2艘の舟の間に網をはり、上流から下流へ川の流れにあわせて舟を流しながら漁をする。網の幅は約15m、漁師は4人1組で、舟をあやつる人と網をあつかう人に分かれサケやマスを捕る。
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- 八尾で古くから作られている和紙。八尾、五箇山、朝日蛭谷で漉かれる和紙は、「越中和紙」と呼ばれ、その多種多様さと優れた品質で世に知られている。
- 八尾和紙は、民芸の美の創始者、柳宗悦ら多くの大家に愛され、その品質と美を高く評価されている。
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- 八尾町三乗地区の棚田。農林省の「日本の棚田百選」に氷見市長坂地区と共に認定された。
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- 神通川は古くから富山県と岐阜県を結ぶ通商の道として重要な役割を果たしてきた。大正時代の末頃までは人を乗せて川を上下する舟もみられたが、道路が整備され荷馬車や自動車が発達してくると舟は姿を消していった。飛騨街道で運ばれた代表的なものに「越中ブリ」と「飛騨馬」がある。
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- 富山市中心部を流れる松川に運航する観光遊覧船で、舟から見る桜は格別と、好評である。松川は旧神通川廃川跡を流れる流路延長約2.6kmの河川で、電気ビル東側の今木橋付近でいたち川と合流し神通川に注ぐ都市内河川である。
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- 昭和54年に開設された総合自然科学館。子供からお年寄りまで楽しく自然や科学に接することができるようにテーマ毎にわかりやすい手法で解説している。
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- 「日本海学」は、環日本海地域全体を、日本海を共有する一つのまとまりのある圏域としてとらえ、日本海に視座をおいて、過去・現在・未来にわたる環日本海地域の人間と自然のかかわり、地域間の人間と人間とのかかわりを、総合学として学際的に研究しようとするものです。
- 「日本海推進機構」は、日本海学の研究と普及の推進母体となり、シンクタンク機能を有するもので平成15年2月10日に、財団法人とやま国際センター内に設立された。
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- 「(財)富山・水・文化の財団」は、水環境が地球上のすべての生態系を左右することに視点を置き、科学技術の観点から豊かな水環境を実現し、水文化の創造を目指し、平成2年3月23日に設立された財団で、水についてのドキュメンタリー番組の制作や関係図書、研究誌の収集等の活動を行っている。
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- 「石倉町の延命地蔵の水」は、富山市街地の真ん中、いたち川にかかる泉橋のたもとにある延命地蔵境内にある水で、ここにお参りする人々の手水として使われている。昔は自噴水であったが戦災で埋まり昭和28年に新しく井戸を堀なおしたもので万病に効く霊水と言われている。
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- 神通川に接した富山市街地は、取水、放水の便がよく、東の常願寺川から多量で良質な用水路網を背にした地理的条件は、わが国でも代表的な広域の水コントロールシステムを有している地域といえる。
- 市街地には放水路、排水路の役割を持つ松川、四ッ屋川、いたち川と入水量をコントロールされて流れる奥田用水、助作川があり、これらの水路は戦禍をうける以前から市街地に流れており、火災時の防火用水、雪どけの排水、道や庭の水まき、洗濯などにも使われていた。
- 戦後の戦災復興では、道路整備が先行されたため都市用水路整備の着手はおくれをとった。
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- 富山市街地を流れる、いたち川から取水する奥田用水の取水堰で通称いたち川のドンドコと呼ばれている。階段状の石の上を勢いよく流れ落ちる水流は白波を立て軽やかな水音を響かせている。昔から子供達の格好の遊び場であった。
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- 風の盆で知られる坂の町八尾には、明治の頃より自然の地形を利用した「エンナカ」と呼ばれる火防・流雪用水路があり、幅45cmの溝が町中を縦横に走っている。
- はじめは、防火用水として造られたのだが、冬期間は速い水の流を利用して排雪用に活用されている。水路を流れる水は上流の野積川より引いている。流雪溝の先駆と言ってよい。
- 「エンナカ」の途中には16ヵ所の排水路が造られていて、大量の雪水が下流に集中して町中が浸水しないように途中から川に流す仕掛けがしてある。溝の深さは70cm、底はU字形になっている。長方形だと水が角を流れ、雪を押し出す力が弱まるからだ。
- 祖先から受け継いだ水路を改良し、工夫を加え、より配慮の行き届いたものにしているのである。
- 「エンナカ」の大切さは子供たちのも徹底していて、水量を調節する鉄板をいたずらしたり、水路にゴミを捨てる者もいないという。
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- 道路に沿って流れる谷川や道路側溝などを、ところどころ計画的に溢水させ、降雨時に雨水が路面を走るのと同じように浸し、雪が地表面に達する直前に消雪を図る消雪方式である。
- この方式は傾斜地形の勾配を利用するので、自然流下水の得られる所に限られる。また、冷え込みの厳しい日など、路面凍結が起こりやすく、転倒・スリップ事故にもつながりやすいので毎日の気温に注意を払い流水量と溢水深を調整しなければならない。気温の高い北陸ならではの消雪方法である。
- 富山県内では、山麓地帯のあちこちの道路で実施されている。
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- 神通川の流域にはたくさんのかっぱ伝説が残されている。人々にいたずらをすることが多いかっぱだが、恩返しをしてくれるかっぱもいた。
- かっぱの恩返しは大沢野町に伝わる話で、弱っていたかっぱを助けた恩返しに魚を持ってきてくれると言う話である。
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- 用水開削工事の守り神として建てられた神社。境内には牛が横たわる像と用水の完成を記念した記念碑が建てられ伝説を今に伝えている。
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- いたち川には24の橋が架けられており、その橋のたもとには全部で49体の地蔵尊や観音像が安置されている。夏には各々の町内で地蔵様をお祭りする地蔵祭りが行われる。
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- 神通川で約1,300年前に行われていたという鵜飼を再現した祭り。婦中町本郷の田島川で毎年開かれている。現在の鵜飼は、鵜匠が舟に乗って鵜をあやつる川舟漁だが、古代の鵜飼は鵜匠が浅瀬を歩く「徒歩渡り漁」だった。大伴の家持が越中の国守として就任していた頃は、神通川のことを鵜坂川と呼んでおりその下流辺りを売比河と呼んでいた。
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- 平安時代から婦中町の各願寺でおこなわれ、江戸時代にも富山藩の藩主が各願寺を訪れ、桜をたのしむ「観桜の宴」を開いたそうである。この言い伝えを再現した「婦中曲水の宴」は満開の桜の下で、平安の貴族の衣装を身につけた現代の歌人達が歌を詠み会う大変優雅な祭りとして、春の風物詩となっている。
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- 富山市宮尾にある県民会館分館内山邸の広大な庭園を見渡すぬれ縁の一隅に、大きな卵型石でできたつくばい(手水鉢)が据えられている。そこから水が落ちる度に、つくばいの下に埋められた水琴窟に一滴、二滴と水が落ち、その音が中でこだまして、ポヨン、ポヨンとなんともいえない不思議な深さを持った音が耳に入ってくる。その音はとてもすがすがしく、暑い季節に聞くと心地よい涼を運んできてくれる。
- 水琴窟は伏せた瓶を地中に埋め、瓶の天井に開いた穴を通る水の滴りを空洞に響かせるもので、つくばいの水を用いた水琴窟は、江戸の昔から風流人の耳を楽しませてきた。
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- 天平19年(748年)越中の国守として就任した大伴の家持は領地を視察する途中に方々で越中の雄大な自然に触れ、その感動を多くの歌に詠んだ。
- 「万葉集」に詠み入れられた河川名は約80で、このうち都の所在地大和の26は別格として、その他では越中が筆頭の9、次が近江の5と続く。越中は実に万葉の昔から川の国「川のまほろば」であった。
- 神通川でも「鵜坂川」と「売比河」で歌を詠んでいる。
「鵜坂川 渡る瀬多み 此の吾が馬 足掻の水に 衣濡れにけり」
「売比河の 早き瀬ごとに 篝さし 八十伴の男は 鵜川立ちけり」
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- 「今泉(いまいずみ)」、「大泉(おおいずみ)」、「泉町(いずみちょう)」、「清水町(しみずまち)」(富山市)