とやま水マップ[黒部川流域圏の水文化の概要]
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黒部川流域圏の水文化の概要
小矢部川|庄川|神通川|常願寺川|黒部川
黒部奥山廻り|霞堤(かすみてい)|舟形屋敷|巨大水制|床固工|下山(にざやま)用水|十二貫野用水|その他の用水|黒部峡谷の電源開発|平地の低落差発電所群|水防団、川倉|流水客土|用排分離|農工一体|ヌルメ|温照水路|黒部川の伝統漁法|入善ジャンボスイカ|愛本の刎橋|権蔵橋(ごんぞうばし)|下山芸術の森・発電所美術館|黒部川扇状地研究所|日本黒部学会|水博物館(構想)|くろべ水の少年団|名水(黒部川扇状地湧水群)|生地の共同洗い場|生地の水だんご|巻江(まきえ)|ミンジャ|流木拾い|川遊び|芋洗い水車|らせん水車|愛本のちまき伝説|水神様|黒部川神社|たいまつ祭り|にぶ流し|杉沢の沢スギ|水にちなんだ地名
- 加賀藩政時代、「黒部奥山」とは越中と飛騨・信濃・越後の国境地帯の山や谷の総称に近いものであった。加賀藩はこの黒部奥山への人々の立ち入りを禁じ、この取り締まりに当たったのが、藩が任命した「奥山廻り」である。
- 奥山廻りになったのは、新川地方の十村(大庄屋)クラスの有力農民で、多くの人夫を率いてその任に当たっていた。
- 加賀藩は森林資源確保のため松、杉、けやきなど7種類の樹木を「七木」に指定し、その伐採や販売に厳しい制限を加え、領内に「御林」「御林山」と呼ばれる藩有林を設定した。
- これらの藩有林は「鎌留御林」で樹木の伐採はもとより、下草や木の枝の刈り取りも禁止されていた。黒部奥山の森林はすべて御林山になり、百姓の立ち入りは禁止となった。
- 奥山廻りは、上奥山と下奥山の2つに分け隔年ごとに巡回した。奥山廻りの最大の任務は盗伐者の取締りであった。
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- 出水の多い黒部川の特性に合わせて作られている。二重部分の堤防を所々切ることによって、洪水のときには水は切れている部分から堤内に逆流して堤防と堤防の間に一時的に貯められた後、もとの河道に戻るようになっている。
- 黒部川の霞堤は明治期オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケによって設計されたもので、現在、小摺戸堤、福島堤、上飯野堤など14箇所の霞堤がある。
- 圃場整備事業の実施(S35~48年)によって多くの霞堤、村囲い堤、森林堤防が消滅した。
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- 黒部川扇状地の特異な屋敷形態の1つで、宅地の周囲を石垣で取り囲み、入り口部分に土のうを積むことができるようになっていた。上流方向の石垣が舟のへさきのようになっていたためにこのように呼ばれた。洪水の被害を防ぐために工夫されたものであったが、現在では、ほとんどなくなった。
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- 水制は、増水してきたとき、その流れをできるだけ川の真中に流れるようにしたり、堤防にぶつかる水の勢いをやわらげる目的で造られるもの。
- 黒部川には、巨大なピストル水制等、多様な水制がある。
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- 河床が浸食されて低下するのを防ぐために、河川を横断して河床を固定する施設。
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- 1501年頃(文亀年間)、黒部川右岸に開削された用水で入善町と朝日町の間を流れている。
- 「用水」という字は、昔は「養水」という字をあてていた。そのことからも、用水が人々の生活に根付いていたことがよくわかる。
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- 椎名道三によって黒部市前沢から東布施地区にまたがる台地上の原野をかんがいするために開削された。椎名道三は1837年(天保8年)加賀藩の命により用水開削に着手した。用水の途中に十二貫野湖(ため池)がある。
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- 愛本新用水:黒部川右岸の台地を潤おす用水。
- 宮野用水:黒部川左岸の台地を潤おす用水。
- 黒部川合口用水:黒部川扇状地の農地面積約8,300haのうち約7,500haをかんがいする用水。用水は愛本堰堤で取水されている。
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- 黒部川の上流部は一年を通して降水量が豊富で、特に冬期は豪雪となる。この豊富な水と急勾配地形の落差を利用して水力発電が盛んである。
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- 扇状地を走る用水にぶら下がった発電所で全国的にもめずらしい。落差は小さいが用水の大きな流量を利用して発電しており、幹線用水に連続して設置されている。右岸黒東用水に3ヵ所、左岸黒西用水に3ヵ所、計6ヶ所の発電所がある。
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- 洪水時に堤防付近の警戒や水防活動を実施し堤防が決壊するのを未然に防いだり、堤防が切れた場合には速やかに応急措置をしたり、また、住民の避難誘導を行う組織として水防団がある。
- 川倉は、洪水時の水防活動に使用される水防資材のひとつで、木で組んだ枠で出来ており、それを流れに投入し堤防にぶつかる水流の勢いを弱めるものである。
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- 黒部川扇状地は砂質浅耕土が多いことから保水力が小さく、また黒部川の水温は全国まれに見るほど低い。このため、気象、水利、地形等の条件にめぐまれながら、10a当たりの水稲収量は富山県内で最も低い地域であった。
- これを改良するため、宇奈月町明日をはじめ名々久保、宮野山、南保の赤土(粘土)を農業用水路を利用して一気に水田に客土した。水田における用水の浸透を最小限に止め、田面水温の上昇をはかり、鉄分を補給して秋落ち現象を防止するのが流水客土である。
- この事業は日本で初めて実施されたものであり、昭和26~34年にかけて黒部川、上市川、早月川、片貝川及び庄川の各水系で順次施工された。
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- 圃場整備事業が入る以前は、田への灌漑は畦を越えて田から田へ供給される「田越灌漑」であった。この方式は通水困難や漏水などにより上流では水があふれ、下流では用水不足をきたすなど水管理が困難であった。
- これらを改善するために圃場整備事業により耕地の短辺に沿って用水路と排水路を分離するいわゆる「用排分離」が行われた。これにより、水管理の省力化が図られた。
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- 圃場整備事業が完了した農村では、中型農業機械一貫作業体系が確立されたこともあって、稲作の省力化が急速に進んだ。そしていままでの出稼ぎや日雇いとといった不安定な農外就業から恒常的通勤兼業という形態に変化していった。
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- 「流水客土」を行う前に行われていた冷水対策で、水口(みなくち)に畳2枚分位の池を造って手あぜにより用水の迂回路を造り冷たい水を一度プールして、そこで水温を上げて水田に流し込む仕組み。この池を、「ヌルメ」という。
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- 黒部川扇状地においては、黒部川自体の水温が低いうえ、扇状地の地形勾配がきついために、用水路内でもほとんど水温は上昇しなかった。そのために苗代では苗の発育不良になり、さらには本田の水口の水温は夏でも15℃にしかならず、その部分の収穫は皆無になることさえあった。
- 温照水路は、こうした冷水対策として考案されたもので、主な用水路の川幅を2~3倍に拡幅し、用水路の勾配を緩くして流速を小さくすることによって受熱効果を高めることを図ったものである。
- 用水路の勾配を緩くするためには、急勾配の黒部川扇状地の用水では高さ50cm程度の落差工を数多く設けなければならなかった。この方法によって流路延長1000mにつき1℃の水温上昇が図られた。
- 温照水路には、長いものでは延長7km近いものもある。(椚山(くぬぎやま)用水L=6,696m、上原用水L=5,408m)
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- 黒部川の伝統漁法としてサケの「押し網漁」がある。竹を十文字に交差させ、それに袋状の網を取り付けた漁具を手にし、もう一方の手でライトを持つ。サケは光を避ける習性があり、ライトでできた人の影に逃げ込もうとする。そこにすかさず上から網を押しかぶせる。水中に網を「押す」独特の漁法である。
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- 明治時代から入善地区で栽培されて以来、品種改良を重ねて今日に至った楕円形の重さが20kg級の大型スイカ。北アルプスから流れる黒部川の清流と水はけのよい扇状地の土質に育まれたみずみずしさが特徴である。
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- 江戸時代に加賀藩が黒部川の愛本に架橋した橋。両岸から大木を刎ね出し、中央部分を橋桁で組み合わせるという、たいへん珍しい構造。流れが激しく、しかも川幅が広い黒部川の両岸を繋ぐ工法として江戸時代に考案された。甲斐の猿橋、岩国の錦帯橋とともに「日本の三奇矯」と呼ばれている。
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- 昔から小摺戸村の人たちは若栗村へ渡し舟によって渡河していた。大正5年になって県が常時水が流れている2ヶ所に釣り橋を架けたが少しの増水でも渡れなかった。
- これを見た三日市町出身の代議士、寺島権蔵が交渉して長さ108m、幅1.8mの釣り橋を架けたが昭和9年の洪水で流失、再び寺島の労で全長541m、幅6mの木橋が架けられた。この橋も昭和27年と32年の洪水で中央部が流失し、その部分が永久橋として復旧された。しかし、両端部分が木橋のため渡るのに不便であったので県は木橋部分も永久橋工事に着手し昭和42年に完成した。黒部川中流部に架かっている「権蔵橋(ごんぞうばし)」は、寺島権蔵さんの功績を偲んでの命名です。
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- 大正14年に建設された赤レンガの水力発電所を利用したユニークな施設で、内部には発電機が残されており、展示空間をひとつの作品としたみなす独特の展示会を開催している。平成8年に国の登録有形文化財に指定された。
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- 昭和51年に入善町民主導で創設された研究所で、黒部川扇状地の水資源や歴史、生物、生活など総合的な調査研究を進め、さまざまなシンポジウムやまちづくり講演会実施等の活動を行っている。
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- 平成元年に黒部市で発足した黒部扇状地全般の研究を目的とした学会。
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- 県東部に位置する2市3町(魚津市、黒部市、宇奈月町、入善町、朝日町)の共同事業を行う新川広域圏事務組合が中心になって進めている博物館構想。
- この構想は、新川地域全体をフィールドミュージアム(屋外博物館)としてとらえ、地域の自然環境や文化遺産を活かし、これまでにない発想で博物館をつくろうというものである。
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- 河川の水質やサケの遡上調査、川の清掃奉仕や発電所見学などの活動をとおして子供たちに資源としての「水」を認識してもらうこと、そしてなによりも清流・黒部川を守るために最も重要な「水」を大切にする心が育まれることを期待して創られた組織で、黒部市の小学生で構成されている。
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- 黒部川扇状地は、昔から豊かな湧き水や地下水に恵まれており、昭和60年(1985年)に入善町の「杉沢の沢スギ」、黒部市生地地区の「清水の里」と「生地の共同洗い場」などの扇端部の湧水群が、環境省の「全国名水百選」に選ばれた。また、黒部市と入善町が国土交通省の「水の郷百選」に選ばれている。
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- 黒部市生地には、湧水を利用した共同洗い場がいくつもある。古くから日常の洗濯、炊事のほか、夏には水団子や西瓜を冷やし、秋には大根洗いもする。生地固有の風景としても親しまれている。今では、観光ルートとして位置付けられ多くの観光客にも楽しまれている。
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- 黒部市生地に伝わる水だんごはこの地方の夏の風物詩として親しまれている。紐状に長く延ばしただんごを指頭大に切断して、甘いきな粉をまぶして食べる。冷たい湧水で冷やした味は格別でまさに「しょうず」が育んだ食文化である。
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- 「巻江(まきえ)」とは、高台の水田からの浸透水や湧水、灌漑用水等を集めて掘った小用水である。
- 十二貫野台地は黒部川の旧扇状地に属する洪積台地で礫層を形成しているために台地の水田からは地下浸透水が多くみられる。
- 十二貫野台地の水田は標高250mから80m間にわたって存在していてその間に何段かの小段丘面がみられる。上位段丘面の水田の浸透水は下位段丘面との境界あたりに湧水となって現れる。
- この湧水や上位段丘面の水田からの灌漑排水、いわゆる「オタレ」などを集めて小用水を掘り、この水を次の段丘面の水田の灌漑水として利用するものである。
- この巻江(まきえ)は、農民達が入植して以来150年間にもわたって、唯一の生活用水として台地に住む人々の生活を支えたきたが、今は簡易水道に取って代わられている。
- 明治の終わり頃とみられる調査では、その数は58本で総延長80kmにも達していたと伝えられているが、今では本数は18本、総延長27kmと大幅に減少した。
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- 台所の近くに川や用水の水を引き入れたもので、そこで食べ物を洗ったり、その水を使って炊事を行ったりした。
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- 6月下旬から7月にかけて梅雨前線によってもたらされる豪雨は黒部川を増水させる。このようなとき「流木」が多く流れてくるので、地域の人々が総出で流木拾いに出た。この流木を「島買い」と称し、必要単位に集め分配処理がなされた。各家庭では薪にされた他、家計の助けとなる収入源となった。このように流木は良質な燃料として地域にとって大きなエネルギー資源となっていた。
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- 黒部川は子供の遊び場であり、子供同士の触れ合いと学びの場であった。子供たちは、水遊びや魚つかみ、秋には赤い実をつけたアキグミ摘みといった遊びを通して心や体を鍛え、川の恵みや自然について身をもって学んだ。
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- 水車の胴の中に里芋等の芋を入れて、それを家の近くの水路にかけてまわして芋の皮をむくのに使った道具。身近にある用水の流れを利用した生活の知恵。
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- 身近にある用水のエネルギーを農作業用の動力に変えるために開発された水車。発祥の地は砺波地方。この水車は、水量がそれほど多く無くても、また勾配がそれほどきつく無い水路でも効率的に動力を生み出すように工夫されており、形は独特の螺旋形をしておりらせん水車として県下全域に普及していた。黒部ではらせん水車のことを「ダイロ」(カタツムリの地方語)と呼んだ。
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- 黒部川扇状地の扇頂に位置する愛本橋に由来する伝説。
- {愛本橋のたもとに一軒の茶屋があった。そこには平三郎夫婦と一人娘の 「お光」が住んでいた。ある日、お光が姿を消し、三年の後「笹のちまき」をお土産に持って帰ってきた。これから子供を産むので絶対に来ないでくれといって納戸に入った。母親がそっと覗いて見ると子供を産んだ大蛇が湯につかっていた。どうして見ないという約束を破ったのか。「私は黒部川に住む大蛇のもとに嫁いだのです。秘密を知られずにいたら時々、お世話するつもりだったがもうできなくなった。」両親の今後の生活の足しにと「ちまき」の作り方を教えて大蛇となって黒部川へ帰っていった。}
- 川の主の大蛇が暴れる(洪水を意味する)のでしかたなしに若い娘をひとみごくうに差し出すという言い伝えは、各地にある。
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- 黒部川右岸の霞堤の周辺、特に新屋地区、小摺戸地区、上飯野では石を神として崇めているところが多い。この石によって濁流が分流し、一村が救われたとか、のちに夢のお告げで石を安全な所に移し、水神様として祭ったとの言い伝えがある。
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- 昭和7年に完成した愛本堰堤は、最大洪水流量7万個を目標に築造されたが昭和9年7月の洪水では流量11万個/秒(1個は1立方尺=0.0278立方メートル)に達したが壊れなかった。人力以上の神秘的な神の力、神徳によるものと感謝し神社を建立した。場所は、愛本堰堤の直下流で、神社の敷地が左右両岸にまたがっている珍しい神社である。右岸には本殿、左岸には鳥居を配し愛本橋によって行き来できるようになっている。
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- 愛本新用水たいまつ祭り:用水完成のさいにたいまつをかざして熱狂的に喜んだ昔をしのぶ祭り。(宇奈月町愛本新地区)
- 墓ノ木たいまつ祭り:水神様へ水への感謝の気持ちを捧げ、豊作と息災を祈る祭り。(入善町墓の木地区:町指定無形民俗文化財)
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- 悪霊を麦わらで作った宝船に乗せ川に流す伝統行事。(黒部市中陣地区:県指定無形民俗文化財)
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- 国指定の天然記念物に指定されている。湧き水地帯に成立した、萌芽性が強く伏条性があり枝の発根力の強い特性を持つスギの林。冬は暖かい地下水が豊富に湧き出しているため、スギ以外にも多様な植生が見られる。扇状地の末端部でこのように自然林が残されているのは全国でここだけである。
- 入善町下飯野新から春日にかけての扇状地扇端の湧水地帯に筋状や点状になって約130haの沢スギと言われる杉林があったが、昭和37年頃からの圃場整備事業で消滅し、現在柳原地区に2.67ha残っているに過ぎない。
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- 「前沢(まえざわ)」(黒部市)、「中沢(なかざわ)」(入善町)、「音沢(おとざわ)」(宇奈月町)