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更新日:2021年2月24日
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死者を葬るために、壮大な墓が造られました。その墓を古墳といいます。古墳が盛んに造営された3世紀後半頃から7世紀までの時代を指し、古墳の特徴から3時期(前期・中期・後期)に区分するのが一般です。
近年では、高松塚のような古墳が造営された7世紀代を終末期と呼んでいます。
古墳時代の定義からすると、飛鳥時代も古墳時代に含まれることになります。このころの土器は、弥生土器の系譜をひく土師器(はじき)と朝鮮半島から伝来した須恵器(すえき)が使用されていました。
※飛鳥時代とは、大和(奈良県飛鳥地方)を中心に都が営まれた時代で、一般的には推古天皇が即位(592年)してから平城京に都ができる(710年)までの時期をいいます。古墳時代と飛鳥時代は、時代区分の基準が違うのです。
<参考>窯で焼く土器(遺跡が語る富山の歴史)
墳丘の形から円墳、方墳、前方後円墳、前方後方墳等に分類できます。前方後円墳とは、江戸時代の学者が命名したものです。円形部分を車蓋、方形部分を轅(ながえ)にみたて宮車をかたどったものと考え、方形部分を前、円形部分を後と考えました。どうして今の形となったかは諸説がありますが、便宜上今も、方形部分を前、円形部分を後として扱っています。
竪穴式と横穴式に分類できます。竪穴式とは、墳丘頂上に穴を掘り棺を納めるもので、石で室を作り棺を納める、棺を粘土で覆い納める(粘土槨)、直接棺を納める(木棺直葬)方法があり、4~5世紀に多く見られます。横穴式とは、墳丘側面に通路(羨道)と玄室を石を用いて作り、棺を納める方法です。合葬ができるものです。前方後円墳、前方後方墳とも埋葬施設は後部分にあります。また、前方部は死者を弔うための、祭祀の場として用いられたと考えられています。
死者が生前使用していた品、黄泉の国でも困らないようにと用意された物で、ともに埋葬されたものです。鏡、剣、玉、武器、石製品等と多種多様な物があります。これらの品を検討することで埋葬された人物の力を推測することができます。古墳の周濠は、墳丘に盛る土を確保するために掘られた跡です。墳丘には、聖域を区別する目的で埴輪を立てたり、盛土が流出を留めるため石を葺いたり(葺き石)することがあります。
王塚古墳は、前方後方墳で、大きさは全長62m、前方部26m、後方部36m。5世紀初めに造られたと考えられる。
山の斜面に横穴を掘り、埋葬した施設を横穴墓という。福岡町西山丘陵の東南斜面には、横穴墓が51基確認されている。
いずれも径1m程の前庭部(入り口)、玄室(埋葬する所)と羨道(両者をつなぐもの)からなるもので、古墳時代後期の墓と考えている。
富山湾を望む地に構築された大型前方後方墳。全長107.5m、前方部長53.5m、後方部長54mで、前方後方墳としては日本海側最大、全国でも9番目の巨大なもの。3世紀末から4世紀初頭に構築されたと考えられる。
残念ながら、後方部には墳丘を掘り返した盗掘があり、埋葬施設等を確認することはできない。しかし、北陸地方の前期古墳と比べても隔絶した規模であることから、日本海の海上交通を押さえ周辺を把握した首長の墓と考えられる。
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