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更新日:2021年2月24日
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奈良と京都に都がおかれ、天皇と貴族を中心とした政治が行われた8~12世紀までを古代といいます。中国の制度に習い、都を区画し、律(刑罰規定を定めた)、令(行政法や民法等など刑罰以外の規定を定めた)を定め、律令国家を形成し始めた時代です。中央と地方、都市と村落が生まれ、戸籍や納税等の行政管理が始まりました。律令国家は、7世紀に整えられ、8世紀初頭には律令を完成させ、9世紀以降まで続きました。
各国には国庁(こくちょう 現在の県庁)、各郡には郡衙(ぐんが 現在の市役所)がおかれました。発掘調査の成果から、国庁や郡衙は正殿・脇殿・前殿等が、棟の方向が東西または南北にのるように整然と建てられ、門や築地等で囲まれていたことがわかってきました。
<参考>律令国家と荘園 竪穴住居から掘立柱住居へ(遺跡が語る富山の歴史)
地面に柱より大きな円形または方形の穴を掘り、その穴の中へ直接柱を入れ、その回りを埋め戻して柱を建てる方法(掘立柱建物)と、礎石を据えその上に柱を建てる方法(礎石建物)があります。堀立柱による建て方が一般的です。
柱に桁・梁をわたし、梁に叉首(さす)や束(つか)を建て棟木(むなき)をのせます。そして、棟木と桁に垂木を渡し屋根を葺きます。棟木方向に平行なところを桁行、それに直角な方向を梁行といい、それらの柱間の数によって、桁行3間梁行2間というように建物の大きさを表します。
須恵器は古墳時代、朝鮮半島から伝来した土器です。轆轤を使い陶器にちかい青灰色のもので、従来の土器とは異なり硬質の土器です。
須恵器は、還元焼成により作られるため、丘陵の傾斜面を利用して構築された専用の窯、窖窯(あながま)で焼かれます。
<参考>窯で焼かれる土器(遺跡が語る富山の歴史)
瓦が生産されるのは6世紀後半からです。国分寺等の建物が整備されるのに伴い、生産されるようなりました。須恵器と同様の還元焼成であるため、当初は瓦専用の窯が作られ焼かれていましたが、後に須恵器の窯と兼業で使用されること多くなりました。
<参考>最古の瓦を焼いた遺跡(遺跡が語る富山の歴史)
日本海に面した水田部にある遺跡で、平安時代前期の荘園の管理を行った荘家の跡と考えられる。水路の跡とともに、掘立柱建物の柱穴を30棟以上も発見した。柱穴が並ぶ状況から、少なくとも4つの建物が存在したことが確認できる。北側にあって南を向く主屋と、主屋前庭を挟んで東西両側及び南面に配置された脇屋。また、柱穴の重なりあいから、これらの建物は、同じ場所に6回以上も建て替えられたことがわかる。須恵器、土師器、墨で文字が書かれている土器(墨書土器)木簡等が出土した。
平安時代の荘園の管理を行った荘家(しょうけ)の跡と考えられる。発見した柱や柱穴から、主屋、その左右に脇屋が「コ」字状に建てられていた。主屋は、東西10.2m、南北10.5mの規模をもち床針で東西面に庇をもつ建物。須恵器、土師器、硯に使用した須恵器の蓋、瓦塔(がとう)、木簡(もっかん)等が出土した。
飛鳥時代後期(7世紀後半)の瓦や須恵器等の製作した生産遺跡。遺跡内には、窯、工房、粘土採掘坑、工人の住居等の遺構があり、当時の窯業生産の全貌を知ることができる。
出土した軒丸瓦は、飛鳥時代の坂田寺の系統を引くもので、畿内政権と仏教の影響下で成立した北陸での瓦葺き建物造営の始まりを知ることができる。
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