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更新日:2021年2月24日
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県内には、多くの民俗文化財が伝承されています。その中から、国県の有形民俗文化財として指定されたものは9件、国県の無形民俗文化財として指定されたものは12件ありますが、その多くは民俗芸能に関するものです。
では、県内の民俗芸能に関するものから見ていくこととしましょう。前述したように、民俗芸能は大きく5分類されていますが、県内で指定されているものの大半は、その中の風流に属するものです。具体的には、曳山がこれにあたります。
県内には多くの曳山が伝承されて、その形や内容は様々で、次のように分類することができます。
信仰関連として御車山は有形、その行事は無形として両方の指定を受けている。加賀二代藩主前田利長が慶長14年(1609)、豊臣秀吉からもらった御所車を、高岡の町づくりの際、7町へ1台ずつ分け与え、京都祇園の山鉾をまねて、関野神社の春祭に曳かせたのが始まりであるとされている。
御車山は、高さ1.8m前後の車の上に、幅約2m、奥行約2.7m、高さ約1.5m内外の屋台をのせて、その上に人形等を飾り、屋台の中央に空高く心柱を立てて、尖端にみごとな鉾留をつけ、その下に大きな花笠をたれ下げたもので、その大きさは約8.5mに達する。
各部とも装飾化されているが、神の霊を迎えるための要素を備えている。また、高岡城下の金工、漆工、彫刻、織工等の名人たちが補修、改装、増工等にたずさわっているので、美術工芸の面からも価値が高い。県内の曳山行事の中でも、もっとも規模が大きく、内容にも特色がある。
御車山祭は、4月3日の与四兵衛祭、4月30日の山飾りと囃子方の音合わせ、5月1日の山揃え、奉曳(ほうえい)と御輿の渡御という順序で行われる。
城端神明宮の祭礼として5月14・15日に行われる。曳山は、貞享2年(1685)神明社の再建を機に始まり、享保9年(1724)からは曳山が神輿の供をするようになり、現在のような祭となった。神輿渡御の行列は、春日宮・八幡宮・神明宮の3基の神輿を、獅子舞、剣鉾、傘鉾(8本)や四神旗が先導し、さらに庵屋台と曳山(6台)が神輿に続く。これは古い神迎え行列の形式を残すものである。中でも傘鉾は、神や精霊を天上から招く依代(よりしろ)があり、曳山以前の姿を留めている。
各曳山には、恵比須(えびす)や堯王(ぎょうおう)などの御神像が座し、彫刻などの装飾が施されている。城端町人の豊かな経済力と大工・塗師・人形師などの高度な美術工芸技術を象徴するものである。また、庵屋台から流れる庵(いおり)唄・庵囃子は江戸情緒豊かな端唄で、化政文化の影響を受けている。曳山などとともに城端に生まれた町人文化の水準の高さを示している。
下新町八幡社で5月3日の祭礼に奉納される。寛保元年(1741)、社殿葺替えの際、上新町が花山に人形役者を乗せて境内で素人芝居を演じ、帰りに各町へ曳き回ったのが始まりとされている。
曳山は、普通八ッ棟造りといわれる屋根形造りで、二層形式になっており上層には人形の依代が安置され、下層は笛・太鼓・三味線などの囃子方が乗る。
曳山は人形師・彫刻師・彫金師・漆芸師・大工などの力量を集合し、八尾町人の財力をつくして製作・改良・修理が続けられた。
砺波市出町神明宮で4月16・17日の祭礼に、子供歌舞伎曳山が奉納される。その後、各町内を曳き回して歌舞伎を上演する。
下題は「鎌倉三代記三浦別れの段」「絵本太功記十段目尼ヶ崎の段」のような見せ場の多いものが好んで選ばれる。
築山とは、神を迎えるため境内に臨時の作られた祭壇のことで、祭儀が終わると解体される。築山は、やがて動く曳山へ発展したと考えられている。
高岡市射水神社で4月23日の春祭の際、二上山に向けて築山は作られる。築山は二段で、上段には祠、その屋根には藁人形の天狗、下段には四天王、桜と木蓮の造花が配される。祭前日の夕刻、二上山頂で御幣に神を迎え、ゴヘイドンと呼ばれる奉仕者の家で一晩守り、翌朝築山へ移る。祭儀は午後、築山の前で行われ、その後3基の神輿が巡行する。
放生津八幡宮で10月2日の秋祭の祭、築山は作られる。築山は、境内の古松を背に作らる。築山は二段で、上段には神殿、その上に釣り竿を手にした姥神、下段には神餞、四隅に四天王が配される。魂迎え式に始まり、本殿と神輿殿の間で海に向かって別火(べっか)を焚き、迎えた神を船みこしに乗せ、築山の背後の古松に迎える。築山前に神火を移し、壇上に神を迎え祭儀を行う。海上から築山に神を迎えるという古代祭祀の形を伝えている。
8月7・8日の両晩にわたって諏訪神社で行われる、大漁と航海の安全を祈願するで祭りである。
たてもんとは、雄大な帆掛け船の形をし、台がそり型になった万灯である。高さ15mの芯柱に80個あまりの提灯をピラミッド状に飾り、基部の「額行灯」に鯛や海老、桜などの絵を描く。
芯柱には上下5箇所に角行灯をつけ神社名などを書き、頂部には丸い「恵比須行灯」をつけ、さらに先端に鉾留にあたる六角形の行灯をつけ、その下から電灯で飾った割竹製のしだれ枝をたらす。
たてもんは、魚津浦に面する町内から1基ずつ奉納され、笛や太鼓の囃子に合わせ諏訪神社境内などで引きまわす。お祓い後、たてもんを3回転させるが、これはたてもんに載せた神餞の魚を神様に見てもらうためといわれている。
祭の起源は明らかではないが、享保年間(1716~1736)に今日のような形になったといわれ、また名前の由来については、神に「たてまつるものの祭り」が縮まって「たてもん祭り」になったといわれている。
県内の稚児舞、獅子舞がこれにあたります。
下村の加茂神社、宇奈月町の法福寺(4月18日の法要)、婦中町の熊野神社(8月25日の祭礼)に伝えられ、4名の男子が舞を奉納するもので、いずれも上方系の舞楽が地方化したもので、古い民俗行事的特色を伝えており、稚児舞の典型例である。
9月4日の祭礼の際、境内仮舞台で、鉾の舞、林歌、小奈曽利、賀古の舞、天の舞、胡蝶の舞、大奈曽利、蛭子の舞、陪臚の9曲が演じられる。
9曲もの舞を伝えるのは全国でも珍しく、また、衣装・面・持ち物・舞い方・舞の前後の行事などに昔の形がよく残されている
富山県は全国的にみても、多くの獅子舞が伝承されている県であり、その数1,300程度と推定されています。
また、その芸態もさまざまで、県東部の二人立ちの獅子、県西部の百足獅子と大まかに分類できます。
白山社の祭礼で舞われる獅子舞である。五色の幟、白衣の天狗、赤い面をつけたババメン、獅子、醜女の面をつけたアネマが行列をなす。神仏習合・山岳信仰の名残を伝え、みこし渡しの先導を務める獅子を行道獅子といい、中世の形を残す獅子舞である。
農耕儀礼の古い形態を保つ、県内では他に例のない行事である。
6月初卯の日に行われる稲の生育と豊穣を祈る田植神事である。境内に2間四方の御田で作り、杁(えぶり)の行事、田植の神事などを行う。真菰の束を重ねて「大男」と「真菰の神様」を作り、背に稲に例えたシラカケの枝を負わせる。御田の正面に飾られた御神幣の下に真菰の神様を置き、苗、杁、大男を供える。田植神事が終わると、宮司は神前に向い大男を後ろ向きに投げ上げる。これを拾った人はその年豊作になるといわれている。その後本殿祭が行われる。また、5月4日のやんさんまも田神事にあたる。
年中行事、祭礼、法会等の中で行われる行事で芸能の基盤をしめすものとして、次のようなものがあります。
中川原海岸沿いの町内で7月31日行われる行事で、ネブタが町内を練り歩いた後、浜で据え付けられ、夕方先端部に火を付け、沖に流す。
ネブタとは、青竹を芯にして周囲を藁とむしろでくるみ、荒縄で縛った松明状のものである。眠気や穢れを払う行事で、青森県のネブタ祭、信州のネブトナガシと同系統の行事である。
7月31日の夕方、竹と麦藁で作った舟を両肩にのせ、地区内を歌いながら練り歩く。その後、前川の淀みに入り、笛や太鼓の囃子にのせて舟を下流へ押し流す。「ニブ」とは新舟と書いたりもし、ネブタのことであるといわれ、滑川のネブタ流しと同様に、ネブタ行事の南限を示すものとされている。
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