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更新日:2021年2月24日
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明治維新とともに日本の絵画は、伝統的手法を重んじる「日本画」と、西洋伝来の新手法「洋画」に分かれ、時代の急激な変化とともにそれぞれの発展をみせますが、洋画の動向が富山に及ぶのは大正期以後でした。
明治の日本画は洋風の写実表現を取り入れた革新をはかり、県出身者では狩野派の木村立嶽が明治初めにそうした作品を描きましたが、それらの大半はアメリカのボストン美術館などに収蔵されています。県内では1894(明治27)年、地方では異例の本格的美術学校として富山県工芸学校(現富山県立高岡工芸学校)が高岡に開校し、やがて東京や京都などで活躍する芸術家を輩出していくことになります。
大正期には、日本画・洋画ともに作者の「個性」を表現することが重要視されるようになります。この頃頭角をあらわして全国に知られた県出身の日本画家としては、石崎光瑤(1884~1947)や郷倉千靭(1892~1975)があげられます。また洋画では、上京遊学した久泉共三(1899~1993)、京都で岸田劉生に師事した雄山通季(1899~1968)らが高岡に戻って1921年に北国洋画協会を結成し、郷土の美術も徐々に活性化を見せはじめました。
京都へ出て巨匠・竹内栖鳳に師事した光瑤は、華麗な装飾性と精緻な写実性を総合した画風で文展や帝展で活躍、しばしば審査員も務めた日本画家です。咲き誇り、やがて散りゆく牡丹の様相が、無限の時間を暗示しています。
石崎光瑤「晨朝」
富山県立近代美術館蔵 昭和14年(1939)
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小動物や仏話を得意の画題とした千靱は、院展(日本美術院)の中心作家として長く活躍し、戦後には日本芸術院会員となった日本画家です。明快な装飾性の中にほのぼのと温かい情感がただよいます。
郷倉千靱「庭と仔犬」
富山県立近代美術館蔵 昭和25年(1950)
<クリックで拡大>(JPG:75KB)
人間の素朴な情念を力強い大画面で表現した棟方志功(1903~75)は、1945年から6年にわたり福光町に疎開し、富山の美術に多大な影響を残しました。棟方は帰京後に数々の国際展で相次いで受賞し、晩年には文化勲章を受けています。
棟方志功「二菩薩釈迦十大弟子」
富山県立近代美術館蔵 昭和14年(1939)
<各画像をクリックで拡大>
前田常作「人間誕生No.5」
富山県立近代美術館蔵 昭和37-38年(1962-63)
<クリックで拡大>(JPG:378KB)
戦後世代の青年画家として上京した前田常作(1926~)は、1957年第1回国際青年美術家展で大賞を受賞したのを機にフランス留学しました。そこで自作を「マンダラ」と評されたことに啓示を受けて以後、曼荼羅の現代的な表現を探究し続けます。
昭和に入ると第2次世界大戦の戦禍を避けて多くの疎開作家が富山に到来し、郷土の美術に新風をもたらします。
戦後、美術の表現はいっそう多様化し、地方での創作も活発化しました。今日では、富山の画家たちは県の内外、さらには広く世界を舞台に活躍を見せています。
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