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更新日:2021年7月5日
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蓑輪堰堤は、早月川から安定して農業用水を取り入れるために建設された堰です。
上市町から滑川市と魚津市の市境を流れ、富山湾へと注ぐ早月川は、剱岳(2,998m)を源とする勾配が日本一強い急流河川です。集水域の年間降水量は3,000mmを超え、降雨日数も200日余りと多く、豊富な水量を誇っています。この水は本流と小早月川の合流点、蓑輪で取り入れられ、左右岸合わせて3,000ha(東京ドーム640個分)余りの耕地を潤しています。強い地形勾配は約6万kWの水力発電(早月川全体で)にも活かされています。
蓑輪堰堤(頭首工)
早月川の豊富な水は流域に多くの恩恵をもたらしてきました。しかし、洪水が多く、明治以降だけで11回もの水害が記録に残されています。また、早月川の河床は転石混じりの砂利層で構成されているため、水が浸透しやすく、夏に連続して干天が続くと、水量がたちまち枯渇して干ばつを引き起こしました。
洪水や干ばつ被害のたびに、流域の農民は言語に絶する苦難を強いられ、地域は疲弊していきました。滑川市に明治前後から競うようにして売薬業が取り入れられたのは、こうした疲弊による貧乏から脱却するためだったと言われています。
蓑輪堰堤の建設以前、用水の取入口は用水ごとに設けられていました。早月川に蛇籠を沈めるなどして用水路に導く作業は、多くの人手を要しました。しかも、その蛇籠などは洪水のたびに流されてしまい、そのたびに補修しなければなりませんでした。春の取水期、川の水はまだ身を切るように冷たく、全身水に浸かりながらの作業は想像を絶する辛いものだったといわれています。
早月川からの用水取入口
蛇籠
戦後の食糧難に加えて、昭和23、24年、甚大な干害が連続し、苦しむ農家の姿を見た当時の早月加積村長は、流域の町村長に呼び掛け、合口堰堤建設に向けての行動を起こしました。
一部に根強い反対がありましたが、粘り強い説得が実を結び、昭和27年7月、ようやく国が直接実施する事業として採択されました。
早月川が転石の多い稀な急流河川であることから、蓑輪堰堤建設には特殊な工法が採用されました。堰堤保護のため流路に鉄板を敷き詰めたほか、夏にこの鉄板が熱で膨張するのを防ぐため、水門の下から絶えず水が噴き出すような工夫がなされました。
昭和37年、滑川市の大浦、大崎野、鄕、鋤川、北野、中村、富山市の下条、魚津市の下椿、有山、吉野、川縁の11用水の水を取り入れる蓑輪堰堤が、幹線導水路とともに完成しました。
加積野の大地では当時、もう一つ大きな土地改良事業「流水客土事業」が行われました。早月川扇状地に拓けた水田は砂質の土壌で水の浸透が激しく、稲の生育を妨げていました。また、土中の養分も流亡して急に稲の生育が衰え、収穫量が減ってしまう「秋落ち」にも見舞われました。そして農家が最も恐れたのは、干天続きによる水不足から稲が枯死する被害でした。こうした窮状を改善するため、用水を使って山間地の粘土を運んで混ぜるという大規模な流水客土事業が行われたのです。流水客土により米の収穫量は格段に増えました。
水土里ウォークin早月川
立山の雪し消らしも
波比都奇(早月川)の川の渡り瀬
鐙浸かすも
(馬の鐙が水に浸かるほど雪解け水が滔々と押し寄せてくる)
万葉集の大伴家持の歌にも詠まれている早月川の恵みの水は、現在も早月川沿岸土地改良区の管理により蓑輪堰堤から加積野の大地に安定供給され、農業・農村と人々の暮らしを守り続けています。
まんどう様(水神)
早月川の氾濫のたびに田畑が冠水、流失し、荒廃する被害が度々あり、殊に夏の日照りの干害がまた烈しかった。その度ごとに、先人が水ごいのため信濃の国戸隠神社に詣で分霊を奉祀し、小祠(小さな祠、社)を建立し、早月川治水などを祈願して「まんどう様」と称し敬崇したものであり、流域には約10カ所現存している。(『滑川神社誌』より)
まんどう様
参考文献:富山県土地改良史編さん委員会
『富山県土地改良史ー豊かな大地にー』(平成16年)など
堰堤(えんてい)
川水を引いたり、流れを緩やかにする
などのために河川や渓谷を横断して築いた堤防。
ダムより小規模。
転石(てんせき、土木用語)
現位置と異なった場所から河川などによって
運搬された巨大な石のこと。
蛇籠(じゃかご)
鉄線や、古くは竹で粗く円筒形に編んだカゴに石を詰めたもので、
河川の水流制御や護岸などに使われた。
客土(きゃくど)
耕地の土壌改良のため、他から性質の異なる土を運んで混ぜること。
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