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更新日:2021年2月24日
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富山県西部に広がる砺波平野は、その東端を南北に貫く庄川が運んでくる土砂によって形成された扇状地です。
(雄神川の川面に紅色が映え匂うように美しい。少女らが葦附を取ろうと浅瀬に立っているらしい。)
この歌は、越中国守であった大伴家持が西暦748年の春の地方巡行の際、雄神川の川辺で詠んだ歌です。当時、庄川は旧庄川町のあたりでいくつかの川に分かれて砺波平野を流れていましたが、雄神川はそのうちの一つと言われています。
聖牛と蛇籠を配した導入堰
1586年1月、本州中部全域に渡る天正大地震が発生し、それが起因となって新たな庄川の分流となる中田川が庄川扇状地東端にできました。
加賀藩は、初代藩主前田利長の菩提寺として造営中であった瑞龍寺を水害から守るため、庄川扇頂部(弁財天社付近)に長さ1.5kmに及ぶ堤防を築造し、中田川を川筋とする庄川の一本化を図りました。工事は1670年から1714年までの45年間にわたり、膨大な労力と費用が投入されました。なお、1807年にこの堤防の根固めのため松が数百本植栽されたことから、それ以降この堤防は松川除(まつかわよけ)と呼ばれています。
また、大小の旧河川跡地には、庄川から各用水路が引かれて新田開発が進み、いくつもの村が誕生しました。しかしながら、洪水ごとに取水施設が壊され、渇水時には上下流の取水口で水争いが起きるなど、庄川からの安定した用水の確保に苦労が絶えませんでした。
1922年に建設が認可され、当時は東洋一と称された小牧ダム(水力発電用ダム)の建設は、農業用水の取水に困難を極めていた庄川流域農民にとって、用水合口ダム建設の技術的可能性を一気に現実的なものとしました。
1925年、根尾宗四郎を会長とする庄川取入用水合口期成同盟会が結成され、用水の合口化の動きが加速し、そして、1927年に県営による用水合口第1期事業が始まりました。旧取水口間の調整が難航しましたが、1934年に合口ダム工事に着手し1939年に完成に至りました。併せて、旧取水口をつなぐ幹線用水路が整備され、戦時下の1943年、ついにかんがい面積1万1千ヘクタールにおよぶ合口事業が完了したのです。
戦後間もない1947年には物資が少ないながらも県営二万石用水改良事業が着手されるなど、合口ダムと砺波平野の農地をつなぐ幹・支線用水路が次々と整備されていきます。また、1960年代からほ場整備事業が盛んに実施されたことで、大型農業機械による効率的な営農が可能となるなど、砺波平野は県内最大の穀倉地帯となりました。
農業用水は、かんがい用水としてのみならず、地域の自然生態系の維持や防火、消流雪、地下水の涵養、景観の保持、小水力発電への活用等の役割を担っています。
山々に降り積もった雪が春には解け出し、用水によって砺波平野の水田に張り巡らされます。鏡のように夕日を映し出す美しい散居村は、日本の原風景として、また郷土の誇りとして大切に受け継がれています。
土地改良用語辞典
聖牛〈ひじりうし〉
河川の水勢を緩和させるための装置。多くの丸太で三角錐を横に倒したような構造物をつくり、いくつかの蛇籠をのせたもの。
蛇籠〈じゃかご〉
鉄線や、古くは竹などで粗く円筒形に編んだかごに石を詰めたもの。河川の水流制御や護岸などに使われた。
合口化〈ごうくちか〉
多数の用水取入口がある河川において、取水の安定化や水利用の合理化のため、取水口を統廃合すること。
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