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更新日:2023年7月3日
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国道156号線と南郷バイパスが交差する高岡市佐野地区。郊外店と新興住宅が立ち並び、出来たての新幹線の高架橋が地区内を横切っています。都市化が進んだこの地区にあって、その中を流れる川の水は驚くほど透明。ゆれる水草と走り抜ける小魚たちの影は清流の証。
田園地帯をゆったりと流れる五十玉用水の清流
その流れをさかのぼって住宅地を抜けると目の前に広がるのは彼方まで続く田園地帯。この地は1200年以上昔の東大寺正倉院の古文書にも記述が残る古くからのコメ作りの地。そしてそのころから変わらずこの地を潤し続けているのが、庄川の伏流水を集めて流れる五十玉用水なのです。
田園地帯をゆったりと流れる五十玉用水の清流
佐野地区を潤す五十玉用水の主な水源は戸出地域に噴き出す湧水群です。この地は大河川から遠く離れたやや小高い地帯でしたが、庄川からの伏流水が四季を通して湧き出しているので五十玉用水は涸れることなく流れ続けるのです。そしてその歴史は古く、約1200年前、「家持の時代」にさかのぼります。
かの万葉歌人、大伴家持が越中の国司として高岡に赴いたのは奈良時代中期の746~751年。その頃の日本は聖武天皇の号令のもと、空前の国家事業「大仏造営」が進められている時でした。莫大な費用の捻出に朝廷は有力寺社・貴族の協力を仰ぎ、その見返りとして新田開発とその私有を認めたのでした。(743年墾田永年私財法)
越中の国においても749年に四千町の東大寺の開墾私有が認められ、この時の開墾記録が「東大寺開田図」として正倉院に保管されていました。その中の一枚「射水郡田開田地図」に現在の高岡市佐野地区周辺が描かれています。そしてそこには祖父川と並んで現在の五十玉用水に相当する水路が記載されているのです。
それまでは小矢部川沿いなどの低湿地を中心に進められてきた越中の水田農業。しかし家持の時代にはいよいよ広大な庄川扇状地に開墾の鍬が向けられるのです。そして、その開墾地を支えたのがこの地に湧き出す豊かな湧水を集めて流れる五十玉用水だったのです。
奈良時代にすでに古文書に記載された五十玉用水ですが、現在の形になったのは江戸時代初期頃と考えられています。前田利長公が高岡の地に城を築いたのが1609年のことですが、その頃の高岡は洪水のたびに流路を変える庄川(千保川)に手を焼いていました。これを現在の位置に固定したのが1670年の加賀藩による松川除の築堤工事です。
加賀藩から富山県へと移った明治以降も、五十玉用水には流域の人々の手が加えられていきます。
【庄川伏流水】しょうがわふくりゅうすい
岐阜県荘川村に流れを発する庄川において、富山県の砺波市庄川町金屋を扇頂として一級河川庄川から一級河川小矢部川に向かって形成された庄川扇状地で、その扇状地の砂礫層を流れる地下水脈が扇端部の下流域一帯で湧き出る豊富な湧水・自噴水をいう。
【JA高岡佐野支店横の湧水】JAたかおかさのしてんよこのわきみず
五十玉用水の水源である庄川伏流水の豊かな湧水は、用水受益地内の各所でも確認できる。その一つがJA高岡佐野支店横の湧水です。夏でも手が凍るほどの冷たく美味しい水を求めてたくさんの人々が訪れる。
【トミヨ】富魚、止水魚
きれいな冷水を好み、日本では水温の低い湧水池やそれに近い淡水環境に生息している。水質の変化や渇水の影響を受けやすく、絶滅の危機に瀕しており、美しい自然のシンボルとして保護活動が行われている。
【ミクリ】みくり
ミクリは沼沢地や流れの緩やかな水路に生育する多年生の草木。栗を連想させるような果実がなり、和名の「実栗」となっている。富山県では比較的広い地域で確認されているが、環境省の準絶滅危惧種に指定されている。
【バイカモ】梅花藻
バイカモはキンポウゲ科の水中生の多年草で、5~7月にかけて、「梅花藻(バイカモ)」の名のとおり、梅の花に似た直径1~2cmの白い花を咲かせる。水温15度以下の、きれいな水のところにしか自生しないので、清流の目安とされている。
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