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更新日:2021年7月7日
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先人の知恵と努力が息づく歴史ある用水
戸久用水は、小矢部川水系一級河川の渋江川から南砺市人母地内で取水され、小矢部市の南部丘陵地帯を西から東に流れる延長約15kmの用水路で、その灌漑面積は約165haに及びます。丘陵地を貫通し、山腹斜面を縫うように流れるこの用水路の歴史は古く、330年ほど前に遡ります。
藩政時代の延宝元年(1673年)、二人の十村とむら役(※)が加賀前田藩からの帰途、加賀と越中の国境にある倶利伽羅峠で休息をとっていたときのこと。眼下に広がる砺波平野を眺め、南方の丘陵地に開墾に適した広大な土地があることに気付き、「あそこは良い土地だ。近くを流れる渋江川の上流を堰き止め、灌漑水を取り入れて開墾しよう」と話し合ったのが、戸久村の開田と灌漑用水の開削の発端と伝えられています。 |
十村とむら役:加賀藩三代藩主前田利常が定めた農政制度「十村制」における役職。地方の豪農(庄屋)に十村という役を与え、いわば現場監督として利用することで、農村全体の監督や徴税等を円滑に行っていた。
戸久用水の取り入れ箇所(南砺市人母地内渋江川上流)
天和元年(1681年)、十村役は加賀藩主に戸久用水の工事を請願し、許可を得て用水工事に着手。この工事により、渋江川上流(現在の南砺市人母地内)に堅固な木製の堰堤が築造され、そこから山腹や谷間を延々と縫い、下流の戸久村に至る3里8町(約12.8km)に及ぶ用水路が建設されました。
途中には急峻な山腹を通過する場所もあり、難工事であったことがうかがえます。また、精密な測量機器のない時代にもかかわらず、わずか3000分の1の勾配の水路を築き上げた当時の技術の高さには驚かされます。
この難工事は、十数年もの歳月を経て完成しましたが、要した経費は、玄米5斗入の米俵(※)を用水路総延長に並べた数(約3万俵)に匹敵するほど巨額であったと伝えられています。
当時の1俵の量は土地ごとに異なり、幕府では1俵=3.5斗、加賀藩では1俵=5斗、現在では1俵=4斗とされる。
戸久用水の開設当初は、十村役と4名の代表者が協議して維持管理の全てを担っていましたが、明治時代に入ってから石高10石以上の地主の集まりによる運営へと変わり、昭和3年には「戸久第一耕地整理組合」が設立され、戦後までこの組織により維持管理が行われました。
その後、戦後の農地改革により地主制度から自作農へ移り変わったことから、昭和23年には自作農家によって「水利委員会」が構成され、これが現在の維持管理組織の母体となっています。
昭和46年には県営ほ場整備事業の計画により、戸久用水のやや下流から取水していた安養寺用水との統合が図られ、戸久用水の灌漑面積は150ha超となりました。これに併せ、受益地10集落で「統合戸久用水水利委員会」を設立し、今日の維持管理に至っています。
戸久用水は、全線が素掘りの土水路で、また山間の斜面を縫ったルートであることから、開設当時は豪雨のたびに用水路が決壊するなど、維持管理に要する労苦は他の村とは比べ物になりませんでした。
昭和40年代には、北陸自動車道の建設工事にともなう用水路の付け替えや、全線でのコンクリート三面張り水路への改修、さらには土砂流入が頻繁な山腹区間での暗渠化により、維持管理が軽減されました。
しかし、近年の異常気象がもたらす豪雨は、山腹の土砂が用水路に流入し通水が阻害されることによる溢水被害のほか、一部の区間では水路からの漏水による谷側斜面の崩壊を招いており、麓の人家に災害を起こす危険性が高まっています。このため、平成29年度からは、防災減災事業による改修が行われています。
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